花火


「本当にすまない、今日はどうしても」

だけど折角だから、私のことは気にせず楽しんできてほしい。戸締まりだけは忘れずにな。
ずり落ちそうになった携帯を挟み直すと、首筋に汗が落ちる。
猛暑のピークは過ぎたとばかり思っていたが、今朝は蒸し暑い。外に出て五分と経たない内から、何ともいえない息苦しさを覚え始める。これでは熱中症で運び込まれる患者も減りそうにない。
日が落ちれば少しは涼しくなるだろうけれど、油断は禁物だ。くれぐれも水分補給を疎かにしないように。
……なんて、患者に言い聞かせるような調子で話してしまうのは、ある意味職業病のようなものだ。もちろん、それだけが理由ではないにしても。
『……』
不意に、耳障りな音がした。目の端に蚊がちらつく。片手でそれを何度か払った睡骨は、訪れた沈黙の長さに首を傾げた。
「―蛮骨?」
その瞬間、背後から「先生」と呼ばれたのと、「分かった」という返答があったのは、おそらく同時だ。すぐ行くと身振りで示して視線を戻せば、汗ばんだ指の先で、通話終了の画面が取り残されていた。
(…どうしたのだろう)
彼が─蛮骨が素っ気ない言葉を返すのは、今に始まった話ではない。けれど、どこか様子がおかしかった気がする。気がする、だけなら良いのだが。

─ここから花火が見えるんだ。
遠いから、本当に少しだけなんだが。

洗濯物を取り込んでいる最中だった。
最後の一枚を外そうと僅かに伸びをする背中を見つめ、睡骨は何の気なしに語り掛けた。
「確かあの辺りだな」
ベランダの端から、駅やビルよりずっと向こうの空を指さす。先週スーパーに貼られたポスターを見かけて、そういう季節なのだとふと思い出したからだ。
毎年この頃になると、河川敷で花火大会が催される。
規模もそれなりに大きく、県外から訪れる人も少なくない。周囲には夜店がたくさん出て、テレビでも賑わいが紹介されている。
実のところ勤務先も協賛に名を連ねるイベントなのだが、業務の兼ね合いもあって、睡骨自身は直接見たことがない。専ら帰宅する頃、このマンションに届く小さな音を耳にするのが、一人暮らしの時分からの恒例行事だった。
「行こうぜ」
「え?」
抱えたタオルの山を胸に、睡骨は瞬く。
手すりにもたれていた蛮骨が、いつの間にかこちらの方を見つめていた。緩やかに揺れる前髪。背にした青空に、大きな雲が流れていく。

「─花火」

気持ちの良い風が吹いていた。
それが一週間前のことだ。

……ドーン、と。遠い音が響いている。

暗い部屋を辿ると、開け放たれた窓の傍でカーテンが揺れていた。ベランダにそろりと足を踏み入れた睡骨は、あの時と同じ場所に立つ後ろ姿を見つけ、ほっと息を吐く。出掛けたら良いと言った癖に、姿が何処にも見えなかったらきっと寂しいと思うに違いないのだ。
サンダルを履いた足下に視線をやると、とっくに飲み干したらしい缶ビールが目に入った。一本。二本。手に持っているのが三本目といったところか。
いつもなら眉を顰め、咎めているような行為も、今は何とも言いがたい感情が勝ってそっと蓋をする。肘を付き、気怠げにスルメイカをつまむ横顔が、酷くつまらなさそうなのも後押しした。
「……ただいま」
隣に並び、睡骨は彼と同じ方角を眺める。
天候に恵まれた夜空に、華やかな色彩が弾けるのが見えた。そろそろ終わりなのだろう、途切れ途切れの小さな光。
無言のままのつむじを見下ろし、睡骨は苦笑する。
……もしも今夜、二人で出掛けられていたなら。
焼きそば。たこ焼き。綿飴。そんなものを頬張る彼の姿が見られたことだろう。ひょっとしたら金魚すくいや射的も楽しんだかもしれない。そうして一緒に見上げる景色は、とりわけ特別なものに思えた筈だ。
そう想像すると、職場で行けないと口にした時よりも遥かに切ない感情が今更のようにせり上がって来て、睡骨は俯く。
「……行きたかったなあ」
ぽつりと呟くと、遅れてドーンという音がした。
間隔を空けて、またもう一度。幾つもの音が重なって、泡のように弾けていく。きらきらと広がって、解けて、消えていく。
「…別に」
その時だ。
「来年行けばいいだろ」
一際大きな光が目の端に映った。
打ち上がったのは、おそらく最後の花火だったのだろう。けれど目にしたのは、隣に立つ彼の顔だった。 
こちらを静かに見つめ返す、夜を映した色。睡骨は意味も無く触れていた手すりから、そっと親指を離す。
「……そう、だな」
これは他愛の無い会話だ。
だけど、
「次は一緒に行こう」
来年でも。再来年でも。
睡骨は返答に頷く頭を緩く撫でると、一回り小さな肩を抱き寄せた。
黙ってもたれかかった蛮骨は、光の残滓を追うように空を見やる。
時折吹く風で昼間よりずっと心地良い。
すっかり静かになった向こう側を眺めながら、二人でもうしばらくの間、そうしていた。
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