※if
※足欠損有り
呻き声が聞こえ、彼が眠りに落ちたのを知る。
睡骨は起き上がり、暗闇に蹲る姿を探した。昨日は微かな月明かりを頼っていたけれど、今はそれも乏しい。伸ばした手のひらは隙間だらけの床板を撫でるばかりで、すぐそこにある筈の体温にも届かない。
這うように動けば、古びた木がぎい、と乾いた音を立てる。
以前なら、これだけで彼は目を覚ましただろう。いいや、それよりずっと先に───この手が、触れるまでもなく。
「……蛮骨」
呼びかけに返る声はやはり無かった。元より狭い長屋の、その隅の隅にようやく見つけた背は、想像通り冷えきっていて……それなのに、油汗でじとりと湿っている。
毎夜魘される顔が、どんな感情を纏っているのか睡骨は知らない。日が照っている間、彼は以前と何も変わらぬ平静さでこちらを見つめ返すから。それはある意味においては救いであったけれど、同時に自身の底知れぬ無力さを感じさせた。
睡骨は傍らに寄り添いながら、その痛みの中心をそっと撫でてやる。何度も、何度も、祈るように。とうに存在しない、彼の両足を。
「…っ……」
昔、四肢のいずれかを斬り落とされた男たちを診た。傷そのものは癒えたにも関わらず、失くした一部の訴えに苦しめられていた姿を、よく覚えている。切断したまさにその瞬間、叫び声一つ漏らさなかった蛮骨も例外ではなかった。
───薬は気休めにしかならない。
それを知っていて、こうしてただ見ているばかりの己を疎ましく思う。この手で施せる医術だけでは、現状の維持が精一杯だった。もう元になど戻れないことは分かっていても、せめてなんとか、自分の足で立てるようにしてやりたい。そのためにも義肢が必要だった。おそらく、かつて彼が首領として束ねていたあの男なら、そうした技術にも精通していたのだろう。しかしもうどこにもいない。己がここを出て、あてどなく訪ね回るだけで許されるのなら幾らでもそうする。だが今の蛮骨を一人残していくことなど、到底できる筈もなかった。
睡骨はさする手を伸ばし、硬く握りしめられた拳を包み込む。すると、いつもとは違う感触があった。戸惑いと共にゆっくりとなぞる。細くて頼りのないそれ。僅かに土と青い匂いがした。そのどこか懐かしい輪郭の正体に、睡骨は目を開く。
『───今頃になると実を付けるんだ。この辺りでもきっと見つかる』
他愛のない草や花の──、そんな話は、彼にとってはきっとつまらないものだろうと思っていた。それでも、己が与えられる事柄は限られていたから。一日の大半を薄暗い寝床で過ごす彼に、隙間風の冷たさでしか季節を知らぬ彼に───、少しでも何かしてやりたかった。
例え気休めでしかなくとも。
「……泣いてんのか」
不意に間近に落とされた囁きに、睡骨は息を止めた。伸ばされた両手は濡れた頬を掴んで、全てを無造作に拭っていく。すまない、違うんだ。そう応じようとした言葉は満足に声にならず。刹那、ひたりと押し当てられた唇が、睡骨を呆気なく塞いだ。混じる息が、仄かな温もりを帯びてゆっくりと絡み合っていく。
こんなのは駄目だと、誰かが叫んでいた。けれど、ならばどうすれば良かったと言うのか。いつか陽の差す下で、蛮骨が長い三つ編みを揺らして歩く姿を想像した。瞼の裏の残像は、いつの間にか床板の上で押し潰された実のように、暗闇に呑まれて消えてしまった。
※足欠損有り
呻き声が聞こえ、彼が眠りに落ちたのを知る。
睡骨は起き上がり、暗闇に蹲る姿を探した。昨日は微かな月明かりを頼っていたけれど、今はそれも乏しい。伸ばした手のひらは隙間だらけの床板を撫でるばかりで、すぐそこにある筈の体温にも届かない。
這うように動けば、古びた木がぎい、と乾いた音を立てる。
以前なら、これだけで彼は目を覚ましただろう。いいや、それよりずっと先に───この手が、触れるまでもなく。
「……蛮骨」
呼びかけに返る声はやはり無かった。元より狭い長屋の、その隅の隅にようやく見つけた背は、想像通り冷えきっていて……それなのに、油汗でじとりと湿っている。
毎夜魘される顔が、どんな感情を纏っているのか睡骨は知らない。日が照っている間、彼は以前と何も変わらぬ平静さでこちらを見つめ返すから。それはある意味においては救いであったけれど、同時に自身の底知れぬ無力さを感じさせた。
睡骨は傍らに寄り添いながら、その痛みの中心をそっと撫でてやる。何度も、何度も、祈るように。とうに存在しない、彼の両足を。
「…っ……」
昔、四肢のいずれかを斬り落とされた男たちを診た。傷そのものは癒えたにも関わらず、失くした一部の訴えに苦しめられていた姿を、よく覚えている。切断したまさにその瞬間、叫び声一つ漏らさなかった蛮骨も例外ではなかった。
───薬は気休めにしかならない。
それを知っていて、こうしてただ見ているばかりの己を疎ましく思う。この手で施せる医術だけでは、現状の維持が精一杯だった。もう元になど戻れないことは分かっていても、せめてなんとか、自分の足で立てるようにしてやりたい。そのためにも義肢が必要だった。おそらく、かつて彼が首領として束ねていたあの男なら、そうした技術にも精通していたのだろう。しかしもうどこにもいない。己がここを出て、あてどなく訪ね回るだけで許されるのなら幾らでもそうする。だが今の蛮骨を一人残していくことなど、到底できる筈もなかった。
睡骨はさする手を伸ばし、硬く握りしめられた拳を包み込む。すると、いつもとは違う感触があった。戸惑いと共にゆっくりとなぞる。細くて頼りのないそれ。僅かに土と青い匂いがした。そのどこか懐かしい輪郭の正体に、睡骨は目を開く。
『───今頃になると実を付けるんだ。この辺りでもきっと見つかる』
他愛のない草や花の──、そんな話は、彼にとってはきっとつまらないものだろうと思っていた。それでも、己が与えられる事柄は限られていたから。一日の大半を薄暗い寝床で過ごす彼に、隙間風の冷たさでしか季節を知らぬ彼に───、少しでも何かしてやりたかった。
例え気休めでしかなくとも。
「……泣いてんのか」
不意に間近に落とされた囁きに、睡骨は息を止めた。伸ばされた両手は濡れた頬を掴んで、全てを無造作に拭っていく。すまない、違うんだ。そう応じようとした言葉は満足に声にならず。刹那、ひたりと押し当てられた唇が、睡骨を呆気なく塞いだ。混じる息が、仄かな温もりを帯びてゆっくりと絡み合っていく。
こんなのは駄目だと、誰かが叫んでいた。けれど、ならばどうすれば良かったと言うのか。いつか陽の差す下で、蛮骨が長い三つ編みを揺らして歩く姿を想像した。瞼の裏の残像は、いつの間にか床板の上で押し潰された実のように、暗闇に呑まれて消えてしまった。